バスと電車と足で行くひろしま山日記 第71回 「幸福」の山/幸山・福山(岡山県総社市)

日頃から愛用している登山地図GPSアプリ「YAMAP」の運営会社は、2021年から毎年アプリ利用者の登頂回数(活動日記数)が多かった山をエリア別に集計している。2023年の中国地方のランキング上位を見ると、1位の大山(鳥取、1709メートル)は中国地方唯一の日本百名山でもあり、順当なところ。2位には第66回(https://hread.home-tv.co.jp/post-336047/)でも紹介した右田ヶ岳(山口、426メートル)が入っている。広島県からは厳島・弥山(535メートル)が4位、第63回(https://hread.home-tv.co.jp/post-324460/)で取り上げた島根県の名峰・三瓶山(1125.5メートル)が5位と、よく知られた山々が並んでいる。その中で、3位の福山(岡山、302メートル)はまったくノーマークだった。アプリで調べてみると、直近1ヵ月の累計登頂回数は1700回近くに上っている。岡山県の山は連載で一度も取り上げていなかったこともあり、この大人気の低山に行ってみることにした。

 

福山合戦の記念塔が立つ福山城跡

 

▼今回利用した交通機関 *時刻は休日ダイヤ

行き)JR山陽線・福塩線(おとな片道1980円)/横川(6:50)→(8:24)糸崎(8:29)→(8:57)福山(9:09)→(9:22)神辺井原鉄道(おとな片道1030円)/神辺(9:25)→清音(10:20)
帰り)JR伯備線・山陽線(おとな片道2640円)/清音(14:28)→(14:35)倉敷(14:50)→(15:59)糸崎(16:08)→横川(17:36)

 

 


岡山県の山への遠い道


岡山方面に足が向かなかったのは、広島からの時間と距離が理由だ。広島県の西部に位置する広島市から岡山県境までは約100キロ。基本的に新幹線は使わないことにしており、移動だけで片道3時間程度を要するので登山の時間が限られてしまうからだ。福山は標高302メートルしかなく、休憩時間を除けば2時間ほどで下山できるので行程的には好適の山だ。

とはいえ、時間がかかるのは事実なので、朝の出発は午前6時50分と早い。最寄りの清音駅までは、料金的にはJRだけを乗り継いだ方が安いのだが、乗り継ぎタイミングの関係で早く着く井原鉄道経由のルートを往路に選んだ。

JR福山駅で福塩線に乗り換え、神辺駅で第3セクターの井原鉄道井原線に乗り継ぐ。1両編成・ワンマンの車両は「戦国列車」とネーミングされたラッピング車だ。戦国大名の北条早雲(1432-1519)がデザインされている。神奈川県の小田原を本拠とした後北条氏の初代をなぜ、と思った。早雲の出自については諸説あったが、近年の研究で沿線の備中荏原荘(岡山県井原市)に本拠を置いた伊勢氏の出身であることが確実視されているのだそうだ。駅名も「早雲の里荏原」になっている。

 

井原鉄道のラッピング車両「戦国列車」

 

線路は単線だが、高架や盛り土になっている区間が多く、眺めが良い。のどかな田園風景を見ながらの旅は楽しい。途中、2018年の西日本豪雨で大きな被害を出した倉敷市真備町(駅名は「吉備真備」=きびのまきび)を通る。吉備真備(695-775)は奈良時代に活躍した学者・政治家の名前だ。真備町では眼下の市街地の多くが水没し、51人が亡くなった。心の中で手を合わせた。神辺駅から1時間3分、JR伯備線との共用駅の清音駅で下車した。

 

高架上を走る列車内から進行方向を見る

 

戦国武将の名を冠した駅

 

こちらは奈良時代に活躍した学者・政治家、吉備真備

 


「幸福の小径」へ


清音駅を出て東へ向かうと、正面に福山が見える。堂々たる山容だ。左手にテラスのような支尾根が延びており、これが幸山(こうざん 170メートル)。両方登れば「幸福」の山というわけだ。登山ルートは複数あるが、せっかくなので「幸」山、「福」山の順で登ろう。清音駅から約3キロ歩いて北側の清音ふるさとふれあい広場へ。白鳥やカモたちが泳ぐ鋳物師池(いもじいけ)の横を通り抜け、多目的グラウンドの先が登山口だ。

 

清音駅近くから見た福山。左手のテラスのように見えるのが幸山

 

清音ふるさとふれあい広場から見上げた幸山(左)と福山

 

両山を巡る道は「幸福の小径」と名付けられている。山頂を目指す登山道だけでなく、山麓を巡る「下の横道コース」や中腹を巡る「上の横道コース」、「ゆっくり廻り道コース」など多彩な遊歩道が整備されている。今回は時間の関係もあり、幸山と福山のピークハントを目指すことにする。

 

「幸福の小径」の案内板

 

グラウンド横の木段を上った後でいったん車道を右手に下り、幸山登山口へ。人気の山だけに、歩きやすく整備されている。15分ほどで幸山の山頂に到着。堀切の跡を越えて幸山城跡へ。戦国時代の山城跡で、城跡からは眼下を通っていた旧山陽道を一望できる要衝だ。時刻は11時30分。すばらしい眺望を楽しみながら昼食を取っている人たちもいたが、福山まで我慢することにする。

 

幸山の登山口

 

幸山城跡

 

幸山城跡の説明板

 

幸山城跡から北側を望む

 

幸山城跡から福山を見る

 

山内の道はよく整備されている

 


太平記の舞台へ


幸山を後に福山を目指す。途中、「八畳岩」の案内板があったので寄ってみる。標高200メートル付近に巨岩が鎮座している。岩上からの眺望もすばらしい。さらに上の大岩(上れない)には三重の石塔が据えられていた。

 

八畳岩からの展望

 

大岩の上に石塔が立っていた

 

登山道に復帰して数分歩くと分岐。左右とも木段がつけてあるが、山頂への近道と思われる右の道を選択。途中、摩崖仏の刻まれた岩の横を通り、5分ほどで東屋のある妙見展望台に着いた。眺めも良好で昼食には格好のロケーションだったが、山頂まであと少しなので見送る。10分ほど緩やかな斜面を歩くと、登山者でにぎわう福山の頂上に着いた。

 

摩崖仏が刻まれた大岩

 

妙見展望台。きれいな東屋あり

 

ここ福山も山城があった。鎌倉幕府の滅亡から建武の中興の成立と挫折、南北朝の動乱を描いた太平記に「福山合戦の事」として登場する。後醍醐天皇の建武政権に背いて一度は九州に敗走した足利尊氏は軍勢を整えて上洛を目指した。1336年5月、後醍醐天皇方の新田義貞一族の大井田氏経が福山城に籠って尊氏の弟・直義が率いる20万騎の軍勢(太平記)を迎え撃った。

 

福山の山頂に立つ福山合戦の慰霊塔(左)と守将・大井田氏経の顕彰碑

 

太平記によると、大井田氏経は「勝負は時の運とはいっても味方の小勢で敵の大勢と戦えば勝つことは千に一つもあるまい。この地で死ねば名を重んじたと人々は言うだろう。名を子孫に残そうと思い定めようではないか」と味方を励ました。大井田勢は善戦したが戦力差はいかんともしがたく落城。東方へ退いた。

この戦いの6日後、摂津国兵庫(神戸市兵庫区)の湊川で足利軍と新田義貞・楠木正成の軍が激突した湊川の戦いがあり、足利方が勝利。楠木正成は戦死し、後の足利尊氏による室町幕府への道を開く戦となった。福山城跡の山頂広場には、大井田氏経の顕彰碑と戦死者の慰霊塔が立っている。

 

 


絶景の山上で昼食


待望の昼食だ。山頂は岡山市方面の眺望を楽しめる東側、総社市や真備町を望める西側、少し離れるが水島コンビナートを遠望できる南側の展望ポイントがある。どれも捨てがたいが、今回は麓の風景が近い西側のベンチを選んだ。2週間前の吉和冠山(https://hread.home-tv.co.jp/post-345436/)とは打って変わって春のような暖かさ。朝方は少し雲があったが、昼前からは青空が広がる最高の天気になった。お湯を沸かしてシーフードヌードルとおにぎりを食べ、レギュラーコーヒーを楽しんだ。

 

岡山市方面の眺望

 

水島コンビナート方面を望む

 

総社市・真備町を見下ろしながら昼食

 


下山は1234段の木段


さて、下山だ。昼食を食べたベンチのすぐ左に、山麓から上ってくる木段が延びている。西斜面をほぼまっすぐに上る直登コースだ。1234段もあるという。しんどいのは明らかだが、実は一番人気は最短で登頂できるこのコース。昼食を取っている間も次々と家族連れらが上って来ては下山していく。帰りの電車に余裕をもって間に合わせるため、最短ルートの直登コースを下ることにした。

 

下山に利用した直登コース。木段は1234段あるという

 

上るのはきつそう

 

懸念した通り、すぐに足に来る。トレッキングポールをついて衝撃を和らげつつひたすら下る。福山の西斜面には、6世紀後半から7世紀中ごろに築造された古墳が数群あり、三因(みより)古墳群と総称されている。このうち、木段の近くにある最南端に位置する67基からなる古墳群は峠古墳群と呼ばれており、下山しながら見てもそれとわかる。

 

登山道横に広がる峠古墳群

 

道路の拡幅工事にかかった1~3号墳は道路下に移築されており、歴史広場となっている。あまり整備されておらず雑草が伸び放題になっているのは残念だが、特徴のある横穴石室が見られるのは興味深かった。

 

歴史広場に移築された横穴式石室をもつ古墳

 

歴史広場の説明板

 

登りやすく、眺望抜群。古代から中世、戦国時代の歴史もたどることができる幸山と福山。人気の理由もわかるような気がした。

 

清音駅に向かう途中で幸山・福山を振り返る

 

《メモ》金田一耕助の小径

ミステリー作家・横溝正史は戦時中に岡山県倉敷市真備町に疎開していた。この地で『本陣殺人事件』を執筆し、何度も映画やテレビドラマ化された名探偵・金田一耕助を生み出した。作品で金田一が降り立った駅が清音駅(作品では一部を伏せ字にして「清-駅」と表記)で、駅前には金田一の顔抜きパネルが設置されている。清音駅(総社市)をスタートし、真備町内の横溝作品ゆかりの地とキャラクター像をめぐる約3時間のウォーキングコース「金田一耕助の小径」が整備されている。

 

ウオーキングコース「金田一耕助の小径」の起点となる清音駅。金田一の顔抜きパネルが設置されていた

 

2024.2.18(日)取材 《掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください》

ライター えむ
50代後半になってから本格的に山登りを始めて5年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラムバスと電車と足で行くひろしま山日記
LINE はてブ Pocket