バスと電車と足で行くひろしま山日記 第57回瀬戸内アルプス(山口県周防大島町)

嘉納山頂に残る旧日本軍の砲台跡

 

周防大島は瀬戸内海では淡路島、小豆島に次いで三番目に大きな島だ。東西約27キロ、南北約12キロ、安芸灘と伊予灘を分かつように浮かんでいる。その歴史は古く、古事記の伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)による国生み神話では、淡路島や本州など大八島(おおやしま)国に続いて生んだ6つの島の1つ「大島」(別名「大多麻流別=おおたまるわけ」)に比定されている。島の西部には600メートル級の山々が連なる縦走路があり、「瀬戸内アルプス」と呼ばれているという。「ご当地アルプス」ハンターとしては見逃せない。広島市から南へ50キロ余り、ゴールデンウィーク後半の好天の日を選んで出かけてみた。

 

▼今回利用した交通機関 *時刻は休日ダイヤ

行き)JR山陽線(おとな片道680円)/横川(06:30)→(07:15)岩国(07:16)→(07:44)大畠
奥畑線乗合タクシー(おとな片道430円)/大畠駅前(08:00)→(08:18)屋代橋(*発車遅れで約8分延着)

帰り)防長バス(おとな片道1170円)/家房(15:42)→(16:21)大畠駅前
JR山陽線(おとな片道680円)/大畠(16:36)→(17:04)岩国(17:07)→(17:44)横川(*岩国→横川は臨時快速電車)

 

 


登山口までの長いロード


「瀬戸内アルプス」は周防大島の西部の山岳地帯に連なる文殊山(662.5メートル)、嘉納山(691メートル)、源明山(624.5メートル)、嵩山(618.3メートル)の4山の総称だ。時間と体力、帰りのバス便を考慮して文殊山・嘉納山・源明山の3山を縦走するルートを選択した。

JR山陽線を岩国で下関行き普通電車に乗り継ぐところまでは岩国アルプス(https://hread.home-tv.co.jp/post-256551/)の時と同じ。広島東洋カープの2軍の本拠地がある由宇駅を過ぎ、周防大島の対岸にある大畠駅で下車。駅前で奥畑線乗合タクシーに乗り換える。登山口は北麓の文殊堂だが、ここまで連れてきてくれる公共交通機関はないので、「最寄り」の屋代橋停留所で下車して舗装路を歩くしかない。ただ、延長5.6キロという距離の長さもさることながら、標高差が約400メートルもある。ちょっとした山登りだ。

 

本土側の玄関口となるJR大畠駅

 

乗合タクシーで周防大島へ

 

大島側から見た大島大橋と大畠瀬戸

 

屋代橋停留所。ここから登山口まで5.6キロのロードを歩く

 

白い花をつけたみかん畑や水の張られた棚田の風景は風情があるし、道沿いに咲くヤマフジやシライトソウにも癒されるのだが、なにせ長いしきつい。約1時間30分をかけて文殊堂にたどりついた。

 

ミカンの花

 

水が張られた棚田

 

道端に咲いていたシライトソウ

 

ヤマフジの花

 

登山口に立つ文殊堂

 


最初のピークは大展望


大同元年(806)に弘法大師空海によって創建されたと伝わる文殊堂にお参りしてから登山開始。まずは石段を上る。脇には薄い紫色の花弁に濃い紫と黄色の模様の入ったシャガが咲いていた。日本の花らしくない名前は漢名の「射干」から来ており、中国から持ち込まれて野生化したと考えられているそうだ。

 

スタートは石段上りから

 

シャガの花

 

登山道は広く、歩きやすい。標高差約250メートルを40分弱で上りきり、最初のピークとなる文殊山の頂上に立った。山上にはコンクリート製の展望台があり、360度の大展望が楽しめる。無料の望遠鏡があるのもうれしい。文殊堂の直下まで車で来られるので、往復するだけなら家族連れのハイキングにもいいだろう。

 

文殊山に通じる整備された登山道

 

文殊山の山頂

 

無料の双眼鏡がある文殊山展望台

 

展望台から大畠瀬戸、柳井市方面を見る

 

わかりやすい案内標識

 


幕末の戦跡が残る縦走路


文殊山の山頂を後に、嘉納山に向かう。緩やかな道を下り、舗装道路の通る峠を越えて5分ほど稜線の縦走路を歩くと「外敵侵入防止の土塁」と書かれた看板があった。ここから約500メートルにわたって縦走路の左側(東側)がこんもりと盛り上がっている。幕末に江戸幕府が長州藩を攻撃した幕長戦争時に築かれたという土塁の跡だ。

 

道の左側の盛り上がりが幕長戦争時に築かれた土塁の跡

 

江戸時代末期、徳川幕府は倒幕勢力の拠点となっていた長州藩の攻撃を決定。1864年の第一次征長は長州藩が戦わずして降伏したが、高杉晋作らの討幕派が藩論を握って幕府との交渉を打ち切った。このため1866年、幕府は14代将軍徳川家茂が自ら指揮して第二次征長の戦を起こした。幕府側は大島口、芸州口、石州口、小倉口の4カ所から攻撃したが、洋式銃など近代的装備で武装した長州側に敗北を重ね、家茂の死去を理由に戦争を中止した。幕府の権威は決定的に失墜し、後の明治維新につながっていく。

周防大島は最初に戦場となった場所で、ちょうど「瀬戸内アルプス」の縦走路が東側から攻め寄せる幕府軍に対する防衛線になっていた。

長州軍は麓から攻め上ってくる幕府側の松山藩軍を縦走路上の三ツ石、旧源明峠、笛吹峠の3カ所で迎え撃ち、敗走させた。戦闘に有利な高所を確保し、横に広く散開して攻撃する作戦が功を奏したという。戦場となった3ヶ所は土塁跡よりも南側にあり、実際に土塁が役に立ったのかどうかはわからない。

 


瀬戸内海の島で2番目の高峰


ルート最高峰の嘉納山には午前11時40分に到着した。瀬戸内海の島の山では小豆島の星ヶ城山(816.1メートル)に次ぐ高さだ。山上には旧日本軍の砲台跡があり、眺望は良好だ。北東方向には旧海軍の連合艦隊泊地があった柱島や、倉橋島を遠望できる。絶系を眼下に見下ろしながらの昼食は最高だ。砲台の台座跡のコンクリートに腰を下ろし、コンロで湯を沸かす。今回はキーマカレーメシとコーヒーだ。

 

キーマカレーメシとコーヒー準備中

 

嘉納山の頂上に残る旧日本軍の砲台跡

 

湯が沸くのを待っていたら、突然爆音が聞こえてきた。上空を見上げると右手から2機の軍用機が現れ、米軍岩国基地の方向に向けて飛び去って行った。そういえば、文殊山に上る途中の山中でも爆音が聞こえていた。地図を見てみると、周防大島は岩国基地の滑走路の延長線上にある。広島市に暮らしているとあまり意識することはないが、基地の存在を強く感じた。

 

上空を飛ぶ軍用機

 


大島口戦争の戦跡をめぐる


次の源明山にはまっすぐ南へ向かうのが近道だが、せっかくなので幕長戦争の戦跡を巡ってみることにした。嵩山(だけさん)に向かう道を5分ほど下ると「三ツ石古戦場」の案内板があった。横には第二次大戦中の高射砲陣地の遺構がある。その先には大小の石がコンクリートで固められたような不思議な岩があった。説明板には「集塊岩」とある。火山の噴出物が固まってできた火山砕屑岩を指すようだ。

 

三ツ石古戦場の案内板

 

火山の噴出物が固まった岩

 

あずまやまで下って嵩山への道と分かれ、源明山へ向かう。600メートル前後の尾根を行く道の勾配は緩やかで、歩きやすい快適な縦走路だ。ピッチも上がる。

源明山までの中間地点に「内海多島海景観」の説明板が立てられていた。前方には丸みのある山容の嵩山、眼下に幕長戦争時に松山藩軍が一時占領・拠点とした安下庄の町並み、海上には忽那諸島(愛媛県)の島々が見事な多島海景観を構成している。ルート上のベストビューポイントの一つだろう。

 

内海多島海景観の展望所

 

内海多島海景観展望所からの眺め。左は嵩山。右下は安下庄の町並み

 

いったん下った後、上り返しに変わる鞍部が激戦地の一つ、旧源明峠だ。小さな供養塔が立てられていた。標高差70メートルの急登を上りきると源明山の山頂だ。山上には「四境の役大島口戦跡碑」と刻まれた石碑が立てられている。幕長戦争は、幕府側の視点から「長州征伐」「長州征討」と呼ばれることもあるが、山口では4カ所の藩境で戦闘が行われたことから「四境の役」と呼ぶのだそうだ。

 

旧源明峠古戦場の戦没者供養塔

 

源明山への急登

 

源明山の山頂に立つ四境の役大島口戦跡碑

 

ここからは一路下山。現在の源明峠を経て笛吹峠の古戦場の説明板を確認し、ジグザグの車道を下ること約45分(この車道歩きが結構きつかった)で家房のバス停についた。

 

笛吹峠に通じる林道

 

笛吹峠古戦場の説明板

 

ゴールの家房バス停。帰りは防長バスを利用

 

総歩行距離は16キロ。ハードではあったが、歴史と眺望を楽しめる山行だった。

 

大畠瀬戸の渦潮

 

JR大畠駅から見た大島大橋と大畠瀬戸

 

対岸から見た瀬戸内アルプス全景

 

2023.5.4(木)取材 《掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください》

 

ライター えむ
50代後半になってから本格的に山登りを始めて5年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラムバスと電車と足で行くひろしま山日記
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