ユニフォーム研究のスペシャリスト登場!カープ新ユニから鯉の歴史を紐解く【カープ道】

再び背番号25を背負った新井貴浩監督率いる新生カープが始動。チーム再建への機運が高まる中、ユニフォームが一新された。広島ホームテレビ『カープ道』は、時代と共に変化するユニフォームを振り返り、鯉の歴史を紐解く。

カープ道

ゲストはコラムニストの綱島理友(りとも)さん。綱島さんは、「週刊ベースボール」での連載をきっかけに、日本プロ野球全球団のユニフォームを調査。「日本プロ野球ユニフォーム図鑑(ベースボール・マガジン社)」を完成させたユニフォーム研究の第一人者だ。

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10月に発表会見があった新ユニフォームについて、綱島さんは「ホーム用は、これまで三連覇の歴史も刻み14年着用しているユニフォームがベース。ロゴの色がより深く濃い。胸ロゴは背番号のサイズも調整。ボタンにも赤が入る。背中には“赤いしぶき”のライン」と解説。一方、ビジター用は「球団の説明によると、より赤にこだわり、ボディはピンクレッドの深みある赤。ロゴ色は鮮やかな赤で色分け」と紹介する。

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ユニフォームを変えるきっかけの一つとして監督の交代が上げられる。72年のカープ球団史で、デザイン変更は20回以上。注目すべきは新監督就任と共に一新されたのは今回を含め、わずか5回。ユニフォームの歴史をたどると、初代(1950年〜)はピンストライプ。ビジター用は大きくカープのマークが付いている。戦後間もない創設で資金難だった球団は「球界初の試みでユニフォームにスポンサーを付け、資金難を乗り越えた」と話す。

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1960年代はメジャーリーグを参考にするスタイルが流行り、ユニフォームの赤が出てくる。そして1963年、白石勝巳監督が就任し、ここで初めて新監督と共にユニフォームを一新。「白石監督はジャイアンツ出身なので、現役時代のジャイアンツのユニフォームと似ている」と、新たな指揮官の思いが色濃く反映されることを明かした。

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その後、ユニフォームの革命が起きるのが1970年代。カラーテレビの普及によりトレンドが大きく変化していた1973年に別当薫監督が就任。「大毎オリオンズの監督を辞めてまでアメリカの野球を見てまわり、アメリカナイズされた別当監督。メジャーリーグで流行っていたべルトのないベルトレスのユニフォームをセ・リーグで初めて採用した」と言う。

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1975年には、日本球界初の外国人監督、ジョー・ルーツ監督が就任し、大きな転機を迎える。「赤ヘルには日の丸の赤、燃える赤、といろいろな説がある。しかし当時は赤ヘルに抵抗がある時代。キャンプ初日には恥ずかしがって被っていない選手がいたほど。しかし、それをおさえたのは優勝。赤い帽子と優勝はセット。カープが日本の男性の色の価値観を変えたのでは」とも話す綱島さん。

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念願の初優勝で巻き起こった赤ヘル旋風。黄金期を迎え、ここから赤を基調とした姿に統一されていく。1989年、ミスター赤ヘルこと山本浩二監督就任でデザイン変更。盟友の星野仙一監督率いるドラゴンズのユニフォームがドジャーススタイルだったのに対抗意識があったのかどうかは定かではないが、採用されたのはシンシナティ・レッズに近い形だった。

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それから30年。新井新監督と新ユニフォームが時を同じくして誕生。来季への期待を込めて<新ユニフォームと順位の関係>を独自調査。「ユニフォームを変えても、そんなでもない」と綱島さん。これまで20回以上変わったユニフォームも、その年の順位は、Aクラスが5回のみ。しかし新監督誕生の組み合わせがあった4回に絞ると、Aクラス進出は2回。

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綱島さんは「カープの歴代ユニフォームは素晴らしいデザインがいっぱい」と感心する。新井新監督の持ち前の明るさと、チームをまとめる包容力で新たな歴史を刻む偉業に期待したい。

 

広島ホームテレビ『カープ道』(水曜深夜) 11月9日放送

ライター 湯谷葉子

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