バスと電車と足で行くひろしま山日記 第43回高松山(広島市安佐北区)

高松山全景 高松山全景

NHKの2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も佳境。物語は後鳥羽上皇が鎌倉幕府の打倒を目指した1221年の承久(じょうきゅう)の乱に向けて急展開している。歴史上、幕府方の圧勝に終わったこの戦乱は、幕府の全国支配を固めるとともに西国の情勢を大きく変えた。幕府は西国に多くいた上皇方の武士の所領を取り上げ、東国の武士たちに恩賞として与えた。安芸・備後も例外ではなく、甲斐国(山梨県)から武田氏が守護職を得て銀山城(広島市)に入り、地頭としては後に中国地方に覇を唱える毛利氏が相模国(神奈川県)から吉田荘(安芸高田市)へ、駿河国(静岡県)からは吉川氏が大朝荘(北広島町)へ入るなど、東国の武士たちが大挙移住した。その一党が熊谷氏だ。武蔵国(埼玉県など)から可部・三入荘(広島市安佐北区)に地頭職を得た熊谷氏の居城があった高松山(338.7メートル)を訪ねた。

▼今回のルート *時刻は休日ダイヤ

行き)JR可部線(おとな片道240円)/横川(7:52)→(8:24)可部

帰り)広電バス(おとな片道400円)/可部駅前(11:51)→(12:21)横川駅前

地図

 


山城らしい山


広島市街地の周辺には中世に城が築かれていた山が数多くある。そんな中でも可部の市街地の北側にある高松山は、かつて山城があったことがよくわかる姿をしている。いかにも攻めにくそうな急斜面の山腹に、山頂付近は人の手で地形が改変された跡が見て取れる。西を流れる根谷川は天然の堀として機能したはずだ。

根谷川沿いを高松山に向かって歩く 根谷川沿いを高松山に向かって歩く

JR可部駅から根谷川沿いを歩くこと15分、高松山の登山口に着いた。地元のライオンズクラブが設置した城跡の説明看板があり、熊谷氏と城の歴史がコンパクトにまとめられている。登山口のすぐ上は墓地になっている。2014年8月、八木・緑井地区を中心に土石流災害をもたらした集中豪雨では、多数の墓石が流されるなど大きな被害を出したという。墓地内には、多くのボランティアの協力や有志の支援で復旧したことを記念する塚と石碑が設けられていた。

登山口の案内看板 登山口の案内看板 墓地の被害と復興を伝える合同塚と石碑 墓地の被害と復興を伝える合同塚と石碑 災害復旧工事が行われた斜面を上る 災害復旧工事が行われた斜面を上る

 


急登の尾根道


墓地を抜け、石鳥居をくぐって登山道に入る。かつては直進して谷筋を上るルートも選べたようだが、「この先登山危険!」と大書された看板が掲げられていた。豪雨で登山道が崩壊しているのだろう。標識に従い、右手の尾根道に向かう。

直進は「危険!」。右の尾根道を行く 直進は「危険!」。右の尾根道を行く 急登の途中にあった巨石。城の遺構の一部だろうか 急登の途中にあった巨石。城の遺構の一部だろうか

さすがは元山城、いきなりの急登だ。麓からの標高差は300メートルほどだが、この傾斜はきつい。攻めるに難く、守るにやすい地形だ。標高210メートル付近まで来ると樹林を抜け、眺望が開けた。南側に阿武山が立ち上がり、眼下には可部の町と可部高校のグラウンドが広がっている。広島市街地や広島湾も見渡せる。この日は朝から年に何回あるかという空気の透明度の高い晴天。空の青さが目にしみる。

標高210メートル付近から南を望む。正面に阿武山、遠く広島市街地も見える 標高210メートル付近から南を望む。正面に阿武山、遠く広島市街地も見える

さらに進むと郭の跡らしい平地になり、300メートルを超えると馬場の跡といわれる細長い平地に出た。東側には石組みの井戸の跡が残っている。すっかり埋もれてしまっているが、山城では貴重な水源だったことだろう。

馬場跡にあった石組みの井戸 馬場跡にあった石組みの井戸

 


火の神の社から本丸跡へ


馬場跡から平坦な道を西に向かうと、ほどなく神社の立つ平地に出た。火の神迦具土(かぐつち)をまつる高松神社だ。ここは三の丸の跡でもある。参拝して最後の急斜面を上りきると三角点のある本丸跡だ。周囲の山並みから切り離された独立峰なので眺望はいいはずなのだが、山頂の周囲の樹木がかなり伸びてところどころ視界を遮っている。それでも南や西側の眺望はなかなかのもの。根谷川の向こうの山上には名刹福王寺の伽藍も見える。

三の丸跡に立つ高松神社 三の丸跡に立つ高松神社 二の丸跡 二の丸跡 山頂の本丸跡 山頂の本丸跡 史跡説明板。かなり年季が入っている 史跡説明板。かなり年季が入っている 福王寺山とカキ。山頂近くに伽藍が見える 福王寺山とカキ。山頂近くに伽藍が見える 南方を望む。太田川の流れ、広島市街地、広島湾の島々 南方を望む。太田川の流れ、広島市街地、広島湾の島々 西方を見る。左は螺山。「にしやま」と読む 西方を見る。左は螺山。「にしやま」と読む

太田川の水運を活用でき、砂鉄や薪炭をはじめとする中国山地の産物が集まる物流拠点でもあった可部を押さえる絶好の位置にあり、攻め寄せてくる敵の動きも一目瞭然。峻険な山上に築かれた大規模な城の構えは難攻不落を思わせる。この地を居城に選んだ熊谷氏は、源平の争乱時に活躍し、一ノ谷の戦いでは貴公子・平敦盛を討ちとって平家物語にも描かれた熊谷次郎直実の一族だ。

 


熊谷氏の領地と居館跡


下山は北側の道をたどる。本丸の北東側の空堀を隔てて鐘の段と呼ばれる相当な規模の郭跡があり、そこを通り抜けると急坂の下りだ。道はしっかりしているので不安はない。20分ほどで東麓の舗装路に出た。15分ほど下ると三入の町に出る。この付近一帯がかつて熊谷氏の治めた三入荘だ。高松山のすそ野を南へ回るように歩いていくと、ハム工場の南側に巨石を積んだ石垣が十数メートルにわたって残っている。「土居屋敷跡」と呼ばれる熊谷氏の居館の遺構だ。往時は約2000平方メートルの規模を誇ったとされ、平時には熊谷氏はここで政務を執ったのだという。

東の登山口。「登城口」とはしゃれている 東の登山口。「登城口」とはしゃれている 高松山の北に広がる三入の街 高松山の北に広がる三入の街 巨石を積んだ土居屋敷跡。熊谷氏が政務を執った場所という 巨石を積んだ土居屋敷跡。熊谷氏が政務を執った場所という

熊谷氏ははじめ武田氏に臣従したが、天文年間(1532~55)に毛利氏の配下になり、戦国期に活躍。毛利輝元の広島築城に伴って広島に移った。関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元が防長二国に封じられると、熊谷氏も付き従って萩に移った。高松城は江戸時代の一国一城令により徹底的に破壊され、いまは特異な山容に当時の面影を残すだけになっている。

 


昼食は噂通りでラーメン


JR可部駅に戻ってきたのは11時30分。少し早いが昼食どきだ。石州街道(県道240号)から可部駅に通じる道は「噂通り」と名付けられている。その道沿いに、「衝青天」と大書されたインパクトのある暖簾を掲げたお店が目に入った。「せいてんをつけ」と読むのだそうだ(2021年の大河ドラマのタイトルは「青天を衝け」だったな)。ネットで評判の牛タンラーメンのお店だ。せっかくなので入店、「人気No.1」と書かれた「牛白湯濃厚塩ラーメン」(900円)をいただく。濃厚なスープ、チャーシューの代わりに牛タンが載ったおいしいラーメンだった。

次の電車まで時間が開いていたので、駅前からバスで帰途についた。総歩行距離は8.1キロだった。

昼食はラーメン店で 昼食はラーメン店で 牛白湯濃厚塩ラーメン 牛白湯濃厚塩ラーメン

2022.11.6(日)取材 《掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください》

ライター えむ
50代後半になってから本格的に山登りを始めて5年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラムバスと電車と足で行くひろしま山日記
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