バスと電車と足で行くひろしま山日記 遠征編 愛宕山(京都市)
人類にとって「火」は文明の源であり、ひとたび火事が起きれば財産や命を奪っていく恐ろしい存在でもあった。燃えやすい家屋が多かった時代に生きた人々は、火難から逃れることを神や仏に祈ったことだろう。神仏がその霊力によって火災を防ぐことを「火伏せ」という。火伏せの神として信仰を集めるのが愛宕神社だ。全国に約900社あるとされる愛宕神社の本社が鎮座することで知られるのが京都市右京区の愛宕山(標高924メートル)だ。比叡山と並ぶ古都の霊山であり、日本三百名山の一つでもあるこの山に、7月の3連休を利用して行ってみた。
▼今回利用した交通機関 *時刻は休日ダイヤ
行き)JR山陰線(おとな片道240円)/京都(8:00)→(8:18)嵯峨嵐山
京都バス(おとな片道230円)/野々宮(8:35)→(8:46)清滝
帰り)JR山陰線(おとな片道240円)/保津峡(13:23)→(13:44)京都駅*JR京都駅までのルートは省略
電車とバスを乗り継いで表参道へ
愛宕山の表参道は京都市右京区の清滝登山口がスタートだ。戦前は現在の京福電鉄嵐山駅から清滝まで愛宕山鉄道が敷かれており、山上の標高710メートル付近まではケーブルカーが通じていた。いずれも不要不急の路線として戦時中に廃線になった。
JR嵯峨嵐山駅で下車。橋上駅の改札を出ると、正面の窓から頂上部にお椀を伏せたような特徴的な山容の愛宕山が見える。西へ5分ほど歩いて京都バスの野々宮バス停へ行き、清滝行きのバスに乗った。バスは清滝道と呼ばれる鉄道跡の府道を通る。清滝トンネルは単線の鉄道が通っていた当時のほぼそのままで、車のすれ違いができないことから信号による交互通行となっていた。約500メートルのトンネルを抜けると終点の清滝バス停だ。
車道を10分ほど下り、清滝川を渡ると登山口だ。近くにある駐車場はほぼ満車で、登山口周辺は準備をする登山者で大賑わいだ。前日は雨、当日の天気予報もあまり思わしくはなかったので、連休の中日とはいえ人出は少ないかと思っていただけにちょっとびっくり。人に出会うことも少ない広島の夏山とはえらい違いだ。表参道入口の朱の鳥居をくぐっていざ出発、カラフルな服装の登山者の列の後尾について歩き始めた。
清滝川を渡って登山口へ 清滝登山口。朱の鳥居をくぐって登山開始ケーブルカーの遺構と序盤の急登
山頂の愛宕神社までは約4キロ、標高差は約840メートル。なかなか登りがいのあるルートだ。鳥居から100メートルほど歩くと、登山道に沿って掘り下げられたコンクリートの軌道跡が見えてきた。かつてのケーブルカー(愛宕山鉄道鋼索線)の遺構だ。終点の山上はホテルや遊園地もある一大リゾート地だったという。1944年に廃線となり、ホテルなども閉鎖された。戦後に復活を模索したこともあったそうだが、実現せずに今に至っている。木々に覆われ、苔むした軌道跡から往時のにぎわいを想像するのは難しい。
ケーブルカーの軌道跡軌道跡から離れると本格的な登りが始まる。急登が続き、あっという間に息が上がる。林間の道で日差しにさらされないのが救いだ。
参道沿いには、参詣者向けの茶屋の跡がいくつもある。標高300メートル付近には一文字屋跡。説明板によると、清滝バス停前で営業している一文字屋食堂が経営していた茶屋があったそうだ。ケーブルカーが開通してからは参拝客や観光客のほとんどはケーブルカーを利用するようになったため、沿道の茶屋は移転したり店をたたんだりした。一文字屋も山上のケーブルカー愛宕駅の2階で店を開いていたという。五合目となる標高390メートルあたりには茶屋兼宿屋だった「な(実際は変体仮名)かや」跡。米粉を練って蒸した「しんこ」という菓子が名物だったと説明板にある。530メートル付近まで登ると「水口屋」跡。茅葺き屋根の茶屋の建物は、伝統的建造物群保存地区に指定されている嵯峨鳥居本地区に移築されているそうだ。
信仰の道をたどる
登り始めて約1時間、標高550メートル付近でやっと傾斜が緩くなり、平坦な道が現れた。ほっと一息だ。少し進むと京都市南部の市街地が一望できる場所があり、癒される。参道をふさぐように倒れた巨木の中間を切って取り除き、通行できるようにしたところもあった。この右手の斜面の上、100メートルほど上にケーブルカー愛宕駅やホテルの跡などがあるはずだ。
10時15分、休息所のある水尾(みずお)分かれに到着した。ここから1時間ほど下ると嵯峨水尾に出る。平安時代に在位し、鎌倉幕府を開いた源頼朝らを輩出した清和源氏の祖として知られる清和天皇(850年~880年)がこよなく愛したという山里で、現在は柚子の里として知られている。水尾登山口は清滝登山口よりも標高にして200メートルほど高い場所からスタートできるので、マイカーなど足があればこちらを選択するのも手かもしれない。
水尾分れから先はより信仰の道らしくなる。左手に古びてはいるが立派なしつらえの茅葺きの建物が見えてきた。説明看板に「ハナ売場」とある。愛宕信仰ではシキミ(樒)の葉が神花とされてきた。水尾の女性たちは毎日シキミを背負って愛宕山に登り、神前に供えてからこの場で参拝者に販売したという。ここで買い求めたシキミの葉を毎日1枚ずつかまど(京都では「おくどさん」)にくべると火事にならないといわれていたそうだ。家庭にかまどがなくなったいまではその役割も薄れ、ハナ売場もずいぶん前に閉鎖されてしまったのだろう。
水尾分かれの休息所 水尾にいざなう手製看板。いつか行ってみたいもの 水尾の人たちがシキミを売っていたハナ売場神仏習合の地へ
さらに15分ほど歩くと、標高840メートルの地点に立派な黒色の門が現れた。黒門だ。愛宕山は古くから修験道が盛んで、江戸時代までは神道信仰と仏教信仰が融合する神仏習合の地だった。愛宕大権現を祭神とし、その本地仏として本殿に勝軍(しょうぐん)地蔵をまつる白雲寺と6つの宿坊があった。黒門は白雲寺の京都側の惣門だ。1868年の神仏分離令と廃仏毀釈によって白雲寺や宿坊は破却されて廃絶し、愛宕神社となって現在に至っている。黒門だけが白雲寺の唯一の遺構として残されているのだそうだ。黒門をくぐるとかつては寺の建物があったと思われる平地が広がっている。山上の堂塔伽藍はさぞ壮大なものだったのだろう。ちなみに勝軍地蔵は西京区の金蔵寺に移されているそうだ。
白雲寺の遺構の黒門 かつて寺の建物が立ち並んでいたと思われる黒門上の境内地火伏せの神様に参拝
境内を抜け、石段を上る。鳥居と神門を抜けると愛宕神社の本殿だ。荷物を下ろし、神前に手を合わせる。防火構造の住宅が増え、消防組織が充実した現代でも火災が恐ろしい存在であることは変わらない。火難に遭わないようお願いした。
本殿に向かう石段 鳥居をくぐって 愛宕神社の本殿「愛宕さんのお札」として有名なのが「火廼要慎」(ひのようじん)のお札だ。「火、すなわち慎みを要する」という意味で、火に対する畏(おそ)れと敬(うやま)いを忘れてはならないという戒めの言葉だ。日々このお札を見て不用意な火の取り扱いをしないように努めれば、火事を出さないことにつながるだろう。調理場が見える京都の料理屋には、このお札が張ってあるのをよく見かける。私も自宅用に買い求めた。いまでもシキミを求める人がいるらしく、お札やお守りと並んでシキミの枝が売られていた。
参拝を終えて石段を下り、境内の広場で昼食。立木に囲まれて見晴らしはあまりよくないが、木の間から京都市北部の市街地や比叡山を見ることができた。
下山は保津峡へ
帰りはできるだけ往路とは違う道をたどりたい。水尾へ下山してもいいのだが、JR保津峡駅まで舗装路を約4キロ歩かなければならないのでパス。少し下の分岐(わかりにくい)から、保津峡駅近くに下山できるルートをたどった。表参道に比べて人は少なく、道も登山道らしいたたずまい。荒神峠への下りと保津峡に下りる直前に急坂があったが、それ以外は総じて歩きやすい道。無事下山して保津峡駅に着いた。総歩行距離はジャスト10キロだった。
保津峡へは右の道を下る 急坂を下りたところにある荒神峠 下山中に愛宕山を振り返る 保津峡が見えてきた。手前の線路が山陰線 トンネルとトンネルの間にかかる橋上にある保津峡駅
《メモ》広島の愛宕神社
広島駅の東側、その名も愛宕町に愛宕神社がある。江戸時代にこのあたりがたびたび大火に見舞われたため、住民が火伏せ、火難除けの霊験あらたかな愛宕堂を建立したのが始まり。原爆で焼失したが再建され、1963年に現在の場所に移された。安芸区矢野町の山上にも愛宕神社がある。ネット情報によると、ここは夜景の名所でもあるそうだ。以前金ヶ燈篭(かながどうろう)山から下山する途中に立ち寄ったことがあるが、眺めはすばらしかった。
安芸区矢野町の山上に建つ愛宕神社(2020年4月撮影)
2022.7.17(日)取材 《掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください》
還暦。50代後半になってから本格的に山登りを始めて4年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラム「バスと電車と足で行くひろしま山日記」