逝去から1年 ズッコケ三人組作者 那須正幹さんが遺した思い

これまでにたくさんの子どもたちが胸を躍らせて読んだ児童文学「ズッコケ三人組」、作者の那須正幹さんが亡くなって1年が経ちました。

那須さんは、作品を通して子どもたちに多くのメッセージやエールを送り続けてきました。累計発行部数2500万部を超える大ベストセラーとなったズッコケ三人組、その発行部数が那須さんがメッセージを届けた子どもの数を物語っています。

かつて那須さんは「子どもは太陽 未来を照らす」と子どもたちへの思いを表現した事があります。那須さんが伝えたかった思いを改めて感じてみて下さい。

 

広島出身の那須さんがズッコケ三人組の舞台のモデルに選んだのは、自身が幼少期を過ごした己斐地区(西広島駅周辺)です。三人組は株式会社を設立したり、殺人事件に巻き込まれたり、経験する出来事は日常からかけ離れた事がたくさんあります。しかし三人組は、戦争は経験していません。そこには那須さんの「三人組は平和と民主主義の申し子、三人を戦争に巻き込むストーリーは最初は無意識だけど最後は意図的に書かなかった。三人が活躍できるのは平和があってこそ」という思いが込められています。

 

那須さんは3歳の時に、現在の広島市西区己斐本町にあった自宅で被爆しています。那須さんは、ズッコケ三人組には戦争を経験させませんでしたが、3部作の小説「ヒロシマ」で自身の戦争に対する思いに向き合いました。小説には、広島で被爆した女性と子ども、孫、3代の女性たちが戦中、戦後をたくましく生き抜く姿が描かれています。3人の女性の姿を通して、広島の人々や町が復興していく姿を描きたかったそうです。

この「ヒロシマ」を書き上げた直後、東日本大震災が起こりました。被災者への思いを馳せる中、地震や津波の被害に加え原発事故の影響も受けている福島県の子どもたちの事が、とりわけ気になり福島に向かいました。「少しでも福島の子どもたちの不安を和らげてあげたい」。その一心だったそうです。

 

ズッコケ三人組はポプラ社から発行されています。那須さんと長年親交があり、福島の子どもたちを励ましにいった際にも同行したポプラ社の山科博司さんに、那須さんを偲んで思い出を寄稿してもらいました。

 

【那須先生と「ズッコケ三人組」と福島のこと】

私は関西の大学を卒業した後、ポプラ社に入社して22年になります。主に宣伝や広報の仕事に従事してきました。その中で那須正幹先生とお仕事する機会に数度恵まれました。誰に対しても素敵な笑顔で関わる人を元気にする方でした。那須先生の素晴らしいお人柄を伝える機会としてこの場をお借りさせて頂ければと思います。

思えばポプラ社に入社したのも那須正幹先生の代表作である『ズッコケ三人組』があったからです。マスコミ全般を目指して広く就活していましたが、なかなかうまくいきません。テレビ局や新聞社に書類選考や一次面接で落ちる日々でした。そんな中、同じ就活仲間から「明日からポプラ社のエントリー始まるよ」と言われて、すぐに思い浮かんだのが『ズッコケ三人組』のことでした。小学生時代の夏の読書感想文でも『それいけ ズッコケ三人組』を題材に書いたことを妙に鮮やかに思い出しました。余談ではありますが、仕事で児童書に触れていて、突如として「あ!!これ読んだ!!」と思い出すことがあります。その本を読んだ記憶と共に、小学校の図書室の間取りや棚の配置、当時使っていた消しゴムの匂い、名前は思い出せない友達の顔など本 以外の色んな記憶までもが溢れるように蘇ることがあります。「ポプラ社」という響きで思い出したたくさんの記憶の中 で『ズッコケ三人組』は確かな手触りで存在感を放っていました。その後のポプラ社の採用試験の過程でも紆余曲折ありましたが、ここでお伝えしたいことは、『ズッコケ三人組』が無ければ私はポプラ社にエントリーシートを送ることも無かったということです。

そして、 ポプラ社に入社して約10年後のことです。東日本大震災が起きました。ポプラ社はすぐに「読み聞かせ隊」なるものを組成しました。ポプラ社の『本』で被災地に何か貢献できることはないか。ポプラ社はこどもの本の会社です。中でも創業以来、大人がこどもに読ませたい本よりも、子どもが自分から読みたいと思える本づくりを大切にしてきました。 小林少年をリーダーとする少年探偵団が 稀代の盗賊・怪人二十面相と対決する「少年探偵」シリーズ、いたずらとおならでいつのまにか世の中を良くしてしまう「かいけつゾロリ」シリーズ、そして「ズッコケ三人組」シリーズなどが、まさにそうした作品にあたります。 被災地の子どもたちが『本』の力で少しでも笑顔を取り戻してくれれば、復興しようと踏ん張っている方々にも希望を持っていただけるのではないか。当時の ポプラ社の社長がそんな思いで立ち上げたチームが「読み聞かせ隊」です。私は隊長を命じられました。『かいけつゾロリ』の原ゆたか先生、『おまえうまそうだな』の宮西達也先生、『おばけのアッチ』の角野栄子先生などがポプラ社の呼びかけに対して、すぐに応じてくださいました。初めに岩手県の大槌町に、峠を三つ越えて原先生と伺いました。レンタカーのナビが「ガソリンスタンドを右です」と機械的に案内してくれますが、目印のガソリンスタンドは津波に流されていて存在しません。さまざまな思いや不安を抱えてたどり着いた崖の上の施設で、車を降りた原先生を見たこどもたちが『あ!!原ゆたかだ!!』 と大きな声をあげながら、みんな笑顔で 駆け寄ってきます。原先生は自分の作品のなかでキャラクターとしても登場するのでこどもたちにはお馴染みなのです。私たちはたしかに『本』で笑顔を届けられると思えた瞬間でした。

那須正幹先生とは、福島県に伺いました。矢吹町の中畑小学校です。家屋の倒壊などは少ないものの放射線の脅威に晒されて いました。除染作業で削られた土が 校庭に背の高さよりも高く積まれていました。子どもたちは運動場で遊ぶことを許されてはいませんでした。目に見えない脅威で不安なこどもたちが集った大きな講堂で那須先生は 語りかけられました。「僕は3歳で原爆に被曝しとる。今は70歳に近いけれど、いまだにピンピンしとる」こどもたちの静かな眼差しが先生に注がれています。さらにこう続けます。「みんな放射能は怖いじゃろう? ただ怖がりすぎてはいかん。正しい知識で向き合おう。広島は原爆でめちゃくちゃになってしもうたが、戦後何十年たって今はもう立派な街になりました。未来の福島は、君たちが立派な街にするんじゃろう?」優しく、誠実に、こどもたちに語りかけられました。

一旦時間を 2018年に移します。「ズッコケ三人組」が誕生して40周年のイベントを東京都渋谷区の施設で2日間に渡り、行いました。世代を超えて、「ズッコケ三人組」の読者のみなさんがたくさん来場してくださいました。その記念イベントの目玉として那須先生と直木賞作家であり、本屋大賞作家の辻村深月先生の公開対談を行ないました。 辻村先生がズッコケ三人組の大ファンだったという話を伺い、オファーさせて頂きました。対談の中で辻村先生はズッコケ三人組の魅力、那須先生の物語への姿勢についてこんな主旨で話されていました。

ズッコケ三人組の世界には、信頼できる大人がいた。大人から子どもへの押しつけがましい啓蒙性は無く、同じ目線で子どもたちを扱ってくれた。なんて嘘のない世界なのだろう、と。

小学生の時に私も夢中で読んだ「ズッコケ三人組」。なぜあんなに夢中になれたのか、辻村先生の言葉を聞いて、そう!そう!そう!と うなずきました。物語の中で、ハチベエたちは起業するもののすぐに倒産の危機を迎え、モーちゃんの母親の離婚の理由はこどもにとって複雑かつシビアなものでした。 那須先生は作品の中で決して、こどもに嘘をつかないのです。私たちはそこに惹かれて夢中になったのでないでしょうか? 作品を通じて、世界の現実と向き合う力が養えると無意識の中で求めていたのではないか。那須先生の作品の力に辻村さんの言葉を通じて改めて気づきました。

福島県矢吹町の小学校に話を戻します。「君たちが立派な街にするんじゃろう?」の後です。やはり那須先生は、こどもたちと同じ目線で寄り添い、励ましてくださったのだと思います。口当たりのいい慰めや嘘はありません。誰もが引き込まれるような笑顔と力強い語り口が印象的でした。私は拝聴しながら、どうかこどもたちに那須先生の言葉が届くようにと願っていました。

講演後の様子を皆さんがご覧になっているこのサイトのテレビ局、広島ホームテレビさんが取材されていました。那須先生が福島の小学校で講演すると聞きつけて取材に来られていたのです。講演後のこどもたちの様子を丹念に取材されていました。広島からお好み焼き を支援物資として届けてくださいました。ある小学生の自宅に広島ホームテレビのカメラが入っていました。カメラの向こうでお好み焼きを食べながら小学生が言います。

「福島は僕らが復興します」、と。

その小学校は読書活動に力を入れている学校で立派な図書室がありました。講演後、「ズッコケ三人組」シリーズの棚からごっそり本が消えたそうです。一年生から六年生まで全校生徒が我先にと借りていったようです。

那須先生の言葉はしっかりと届いていたのです。
広島ホームテレビの報道特集を観ながら、涙が溢れてきたことを覚えています。
かつて「ズッコケ三人組」から未来に向かうための生きる力を得ていた先輩として、矢吹町の小学生の気持ちがわかります。

世界の現実と向き合う力を那須正幹作品はもたらしてくれます。厳しくも優しさに満ちた、那須先生の人柄そのもののような作品をたくさんたくさん残されました。信じられないことに那須先生が執筆した著書はもうすぐ600冊だったそうです。

これからもポプラ社の社員として那須先生の作品を、心を、届けていきたいと改めて思います。

ポプラ社ブランドプロモーショングループ 山科博司

 

 

最後に、那須先生の福島の子どもたちへの激励に同行取材した筆者も、一言加えさせて頂きます。

那須先生が福島の子どもたちを激励に訪れてから、11年が経ちました。那須先生のメッセージは、決して分かりやすい話ばかりではありませんでしたが、子どもたちが何かを受け取ろうと真剣に聞いていた姿が思い出されます。実際に映像で残っているので、ぜひご覧いただけたらと思います。あの場に居た子どもたちは、1年生ばかりだったとしても、そろそろ成人を迎えます。福島は徐々に復興しつつありますが、まだ完全とは言い難い状況です。しかし当時の子どもたちが復興の力となり、福島のよりよい明日を作ってくれるはずです。
またこの取材では、ある被爆者の方の言葉が今も強く残っています。那須さんが描いた「ヒロシマ」三部作のモデルになった梶山敏子さんです。これまで様々な被爆者の方に取材させていただきましたが、「原爆に遭って良かったのかもしれない」とおっしゃった方は初めてでした。梶山さんは戦争や原爆は絶対にあってはいけないという強い思いをお持ちです。原爆で親を亡くして孤児になり、戦後大変な苦労をされました。それでも懸命に生き抜く中で夫と出会い、子どもや孫に恵まれて穏やかで幸せな生活を送っておられます。逆説的ですが、「被爆がなかったら今の自分はない」という意味でそのようにいわれたのです。

東日本大震災や広島の豪雨災害など、人生には壮絶な出来事に遭遇する事があります。私自身も阪神大震災を経験しました。原爆の様な人類史上最悪に近い出来事に遭いながらも、梶山さんの様に、振り返って良い人生だったと思える人がいるというのは苦難の渦中にいる人の力になります。那須先生が描いた「ヒロシマ」はそうした人間のたくましさが描かれています。梶山さんは、現在も比治山本町の「お好み焼き KAJISAN」で元気にお好み焼きを焼いておられます。
那須先生は天国に旅立たれましたが、那須先生の作品はこれからも子どもたちに力を与え、思いを受け継いだ人々が平和を守る力になってくれるはずです。

 

ひろしまリード編集長 土屋誠

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