バスと電車と足で行くひろしま山日記 第31回 極楽寺山(廿日市市)

極楽寺山(廿日市市) 極楽寺山(廿日市市)

今回は広島市内最高峰の大峯山(おおみねやま 1050メートル)に登る予定だった。ところがJR山陽線のダイヤは早朝に起きた発煙トラブルで大幅に乱れた。横川駅に来た電車もなかなか発車せず、乗車中に宮内串戸駅7時32分発の津田行き広電バスの乗り継ぎに間に合わないことが確実に。このバス便は午前中に1本しかない登山口方面に行くコミュニティバスと接続しているため、予定していた登山計画はあきらめるしかない。沿線にあってまだ紹介していない山、となると、厳島の北方の対岸に堂々たる山容を見せる極楽寺山(ごくらくじやま 693メートル)が第一選択だ。予定を変更して廿日市駅で下車し、瀬戸内海国立公園にも指定されている古刹の山を目指すことにした。

▼今回利用した交通機関 *時刻は休日ダイヤ

行き)

JR山陽線(おとな片道240円)/横川(7:04)→廿日市(7:18) *5時28分に西広島-新井口駅間の線路から煙が出たトラブルの影響で13分程度遅れ

帰り)

広電バス(おとな片道190円)/岡の下橋(13:34)→五日市駅北口(13:46)

JR山陽線(おとな片道200円)/五日市(13:59)→横川(14:09)

極楽寺山(廿日市市)

 


山名の由来になった古刹を目指して


気持ちを切り替えて登山口を目指す。住宅街を抜け、西広島バイパスの下をくぐると山裾に行き当たる。左に折れてバイパス沿いの細い道を歩く。道路越しに厳島の全景が見える。2、3分で登山口なのだが、これがまたわかりにくい。茂みの切れ目の奥に階段があり、「極楽寺山」と書かれたプラスチックプレートが右手の木にかかっているのでかろうじて登山口だとわかる。

登山口に向かう西広島バイパス脇から見た厳島 登山口に向かう西広島バイパス脇から見た厳島 わかりにくい登山口 わかりにくい登山口

登山道に入ってしまえば、道はしっかりしている。昔からの参道らしく、距離を示す石柱の道標も残されており、信仰の道であることを感じさせる。序盤は比較的緩やかな道が続き、30分ほど歩くと山陽自動車道(正式にはこの区間は広島岩国道路)に行き当たる。ここの標高は160メートルほど。道路をまたぐ極楽寺橋を渡り終えると、本格的な登りになる。

参道であることを示す道標 参道であることを示す道標 山陽自動車道(広島岩国道路)をまたぐ極楽寺橋を渡る 山陽自動車道(広島岩国道路)をまたぐ極楽寺橋を渡る 極楽寺橋を過ぎると本格的な登りが続く 極楽寺橋を過ぎると本格的な登りが続く

よく整備されてはいるが、結構な傾斜もある山道をひたすら登る。「極楽寺 あと60分」の看板を過ぎ、20分ほど歩くと小さな祠(ほこらが)があり、そのすぐ上に展望所がある。ベンチも置かれていたので一休み。広島湾の多島美や広島市の市街地を一望できる。気温がかなり高めだったので、熱中症にならないようしっかり水分を補給した。

標高465メートル付近からの眺望 標高465メートル付近からの眺望 休憩用のベンチもあり 休憩用のベンチもあり

展望所から10分ほどで標高518.4メートルの四等三角点。さらに三十丁の道標を過ぎると原からの登山道と合流し、ここからようやく緩やかな道になる。左手の岩の上に穏やかなお顔の石仏が鎮座していた。極楽寺はもう近い。

三十丁の道標 三十丁の道標 原からの登山道との合流点 原からの登山道との合流点 岩の上に鎮座する石仏 岩の上に鎮座する石仏

山門をくぐって毛利元就ゆかりの本堂へ


分岐から10分ほどで石段と山門が現れた。ここから極楽寺の寺域だ。石段脇の看板に記された縁起によると、奈良時代の天平3年(731年)に行基により開山され、平安時代の大同元年(806年)に空海が再興。鎌倉時代の文治3年(1187年)には後鳥羽上皇から「上不見山」の勅額を賜ったという。山門には仁王像が納められていた。格子越しにのぞいてみたところ、あまり見たことがない金属製のように思えた。

山門に到達 山門に到達 仁王像(吽形) 仁王像(吽形) 仁王像(阿形) 仁王像(阿形)

山門をくぐって5分ほど歩き、最後の石段を上りきると極楽寺の境内だ。すぐ右手にあずまやと展望台があり、厳島や能美島の浮かぶ広島湾と廿日市の市街地を眼下にゆっくり休める。樹木に遮られて眺望の範囲が限られるのが少し残念だが、約1時間50分かけて登ってきた値打ちのある景観だ。

極楽寺本堂へ最後の石段を上る 極楽寺本堂へ最後の石段を上る 極楽寺境内の展望台 極楽寺境内の展望台

極楽寺の本堂は県の重要文化財。戦国時代の永禄5年(1560年)に毛利元就が再建したことで知られる。元就はなぜこの山上の寺を再興したのだろうか。再建の時期は1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破り、1557年に大内氏を滅ぼして安芸国に加えて防長二国の支配を確立した後の時期にあたる。自らの運命を転換した厳島の古戦場を眼下に見、防長に通じる山陽道が麓を通るこの山の古刹に、過去の戦勝の感謝と将来の繁栄への願いを込めたのかもしれないと想像した。

毛利元就が復興した極楽寺本堂 毛利元就が復興した極楽寺本堂

日本建築学会編「総覧 日本の建築8 中国・四国」によると、本堂の建物は江戸時代の天明8年(1788年)に大規模な改造が行われており、元就による再建当時からの部材は側面の花頭窓(かとうまど)や柱など一部だけだそうだ。それでも、周囲に裳階(もこし)と呼ばれるひさしを巡らし、正面には優美な曲線を描く唐破風(からはふ)様式の向拝(こうはい)と呼ばれる参拝者の頭上を覆う屋根をつけた姿は、見る者の心を重層な歴史の世界へいざなってくれる。

趣のある花頭窓 趣のある花頭窓

スイレン咲き誇る伝説の池


極楽寺を後に山頂へ向かう。遊歩道を10分ほど歩くとあずまやのある標高693メートルの頂上に着いた。「展望広場」と書かれた看板が立てられているのだが、樹木に囲まれて展望はまったくない。写真だけ撮って蛇(じゃ)の池のある憩いの森に向かう。古くから大蛇が住むという伝説があり、ヤマタノオロチと関連付けたり、7.5キロ北の阿弥陀山山頂近くの窪地にあった蛇ノ池と行き来したりしていたなど、さまざまな伝承が残されている。

極楽寺山の最高地点。展望広場といいながら展望はなし 極楽寺山の最高地点。展望広場といいながら展望はなし

池が見えてきて驚いた。かなり広い水面いっぱいに白やピンクのスイレンの花が咲き誇っているのだ。これは知らなかったので(そもそも事前準備なしの登山)うれしい誤算だ。まだ11時。少し早いがスイレンを愛でながら池畔の昼食としゃれこんだ。スイレンは8月まで楽しめるそうだ。頂上近くまで車道が通じており、キャンプ場も整備されているのでマイカーを利用して家族で来るのも楽しいだろう。

スイレンが一面に咲く蛇の池 スイレンが一面に咲く蛇の池 白い花弁をつけたスイレン 白い花弁をつけたスイレン 淡紅色のスイレン 淡紅色のスイレン

 

紅白ペアで咲く花も 紅白ペアで咲く花も


下山はマイナールートへ


さて、下山だ。一般的には極楽寺の山門まで戻り、中国自然歩道の矢口・極楽寺ルートと重なる登山道を下るのだが、五日市方面に向かうことにして尾根沿いを北に歩いて広島市佐伯区の倉重地区に下りるコースを選んでみた。マイナーなルートなのか、山上はあまり整備されていない山道が続く。踏み跡がわかりにくいところもあり、赤テープの目印を頼りながら歩くこと30分で分岐の椿乗越に。ここからの下りの道はやや荒れ気味ではあるが迷うことはない。約30分で霊園上の倉重登山口に下山した。広島市植物公園のバス停からJR五日市駅北口行きの広電バスに乗るつもりだったが、出発直後だったのでバス便の多い停留所まで歩くことにした。駅まで歩いてもいいかなとも思ったが、30度近くまで気温が上がって体力を消耗したので断念。岡の下橋バス停からバスに乗った。総歩行距離は13.1キロ。想定外ではあったがなかなか充実の山歩きだった。

落ち葉で滑りやすい倉重への下山道 落ち葉で滑りやすい倉重への下山道

 

《メモ》
倉重登山口から舗装路を500メートルほど下った運動公園の反対側に7世紀後半に造られたとみられる栄草原(えぐさばら)古墳群がある。標高220~240メートルの丘陵上に5つの古墳が密集する群集墳だ。第1号古墳は円墳で、横穴式石室の側壁や床一面に敷き詰められた石が残っていたという。一帯は公園になっている。

栄草原第1号古墳。一帯に計5基の古墳が確認されている 栄草原第1号古墳。一帯に計5基の古墳が確認されている 栄草原第1号古墳の説明板 栄草原第1号古墳の説明板

20225.28(土)取材 《掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください》

ライター えむ
還暦。50代後半になってから本格的に山登りを始めて4年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラムバスと電車と足で行くひろしま山日記
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