バスと電車と足で行くひろしま山日記 第15回宗箇山(三滝山)~茶臼山縦走(広島市西区)
近郊の里山に目的地変更
新型コロナウイルスの感染が急速に広がっている。広島が感染拡大の中心地になるのは初めてのことだ。県内には全国に先駆けてまん延防止等重点措置が発令され、飲食店は軒並み休業。外出の機会をできるだけ減らすよう求められている。「おでかけ」がテーマの当コラムとしても悩ましいところだ。これまでも感染防止には細心の注意を払ってきたし、山はアウトドアで、日帰りなら「密」になることもほぼない。それでも、今後の状況次第では休載も選択肢にしなければならないかもしれない。今回は別の山を考えていたが、遠出を避け、短時間で行き来できる市街地近くの里山に変更した。太田川放水路に最も近い縦走路があり、豊かな自然と歴史、文化の香りも味わえる宗箇山(そうこやま 三滝山、356メートル)から茶臼山(199.7メートル)まで歩く里山ハイキングコースを紹介しよう。
▼今回利用した交通機関 *時刻は休日ダイヤ
行き) 徒歩
帰り) JR山陽線(おとな片道150円)/西広島(12:39)→横川(12:42)
名刹三滝寺からスタート
スタートは高野山真言宗の名刹三滝寺(みたきでら)。平安時代初期に開かれ、1200年の歴史がある。原爆の投下後には多くの被爆者が避難し、水を求めながら亡くなった。宗箇山から流れ出る名水は、8月6日の広島平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)で原爆犠牲者に捧げる献水の一つに選ばれている。
最寄り駅はJR可部線の三滝駅だが、今回は歩いていくことにした。太田川放水路の堤防上に上がると、たおやかな山容の宗箇山が眼前に広がる。三滝橋を渡り、可部線の踏切を越えると坂道に。10分ほどで三滝寺参道の入り口に着き、協力金200円を納めて入山する。
たおやかな山容の宗箇山。手前は太田川放水路と三滝橋 三滝寺参道入り口の石段趣の異なる三つの滝
三滝寺はその名の通り、寺域に趣の異なる三つの滝がある。それぞれ水源が別になっており、麓に近い方から駒ヶ滝(第三の滝)、梵音(ぼんおん)の滝(第二の滝=雄滝)、幽明(ゆうみょう)の滝(第一の滝=雌滝)と名付けられている。個人的には、岩壁をまっすぐ流れ下る幽明の滝のたたずまいが好みだ。宗箇山には駒ヶ滝の脇を登る「Bコース」もあるが、今回は三滝寺の全域を通り抜ける「Aコース」で行こう。
寺内には滝以外にも見どころが多い。その一つが、入り口の石段を上がってすぐ右手にある朱塗りの多宝塔だ。県の重要文化財に指定されている。説明板によると、もともとは室町時代に和歌山県広川町の廣八幡神社に建てられたものを、原爆犠牲者の供養のため1951年に移築したのだという。廣八幡神社は、江戸時代末期の1854年に起きた安政南海地震の津波が広川町(当時は広村)を襲った際、濱口梧陵が田の稲むらに火を放ち、村人を高台の神社に避難誘導したという逸話「稲むらの火」の舞台になった場所だ。同神社のHPによると、多宝塔は神仏習合時代の象徴でもあったが、明治時代の神仏分離令により三滝寺に移築された、と書かれている。説明板の記述とは時系列が合わない。今回は調べきれなかったが、三滝寺に移築されるまでにさまざまな経緯があったのだろうか(わかったら追記します)。
本堂横から登山道へ
参道にはそこかしこに原爆の記憶が刻まれている。梵音の滝の横から本堂に至る場所には、正方形の敷石が規則正しく埋め込まれている。もともとは広電の市内電車軌道に敷かれていた敷石で、市内中心部で被爆したものを移設したのだという。鐘撞堂の近くには、犠牲者を悼む句碑や歌碑もあった。
市中心部で被爆した広電の市内電車の敷石が参道に敷かれている 三滝寺本堂参道を登り詰め、本堂の横を抜けるといよいよ山道に入る。最初は谷筋を登り、砂防堰堤を越えると暗い人工林と竹林の道。左の斜面を登ると明るい尾根の道になる。このルートは歩きやすく、危険な個所もほとんどないのでファミリー登山にはもってこい。この日も多くの家族連れに出会った。縦走路と合流してから宗箇山の頂上まではトータル約50分の道のりだ。
第一の滝・幽明の滝。こちらは豊富な水が流れていた よく歩かれているAコースの登山道 宗箇山山頂。標識に正月飾りがかけられていた山名の由来となった武将茶人
宗箇山という山名の由来となったのは、桃山時代の武将で、茶人としても名を成した上田宗箇(1563~1650)。やはり茶人として知られた古田織部(ふるたおりべ)と親交があり、最後は浅野家に仕えた。大坂夏の陣では敵が迫る中で悠然と竹を削って茶杓「敵がくれ」を作った逸話がある。作庭家としても名高く、縮景園(広島市中区)や徳島城表御殿千秋閣庭園、名古屋城二之丸庭園などを手がけた。宗箇を流祖とする武家茶道は、上田宗箇流としていまも広島の地に伝統をつないでいる。その宗箇が、自らの上屋敷と縮景園の借景とした山に大きな松を植えたことから、この松は「宗箇松」と呼ばれ、山も「宗箇山」と呼ばれるようになったという。現在の宗箇松は1998年に植えられた四代目だ。ちょっと樹勢が衰え気味のように見えるのが気になるが、立派に生長してほしいものだ。山頂からの眺めは格別だ。市街地が近いだけに、人々の営みが感じられる。少しもやっていたが、先週登った厳島・弥山や似島、江田島などが水墨画のように見えて風情があった。
四代目となる宗箇松 宗箇山山頂から南方を望む。広島湾の島々が水墨画のようだ 小学校と団地が足元まで迫る縦走路。右端が茶臼山 もやに霞む広島市街地縦走路を南へ、己斐の町に
水分補給を終え、休憩を終えると尾根道を南へ向かう。多くの登山者やハイカーにしっかり踏まれた快適な縦走路だ。途中、鍬投峠を経てNTTの無線施設のある大茶臼山(413メートル)に向かう道や三滝少年自然の家に下山できる道(新型コロナ対応で休館のため1月31日まで通行不可)など、いくつものエスケープルートがある。高峠山(237メートル)を経て前方には本日のゴールになる茶臼山への尾根が続く。右(西)側は尾根のすぐそばまで団地が迫っている。15分ほどでコンクリート階段が現れ、竜王己斐道路の峠に着いた。ここから数分のところにボンバスの大迫団地バス停があるので、ここで山行を終えるのもよし、だ。
杓子を使った手製の案内標識実はここから先の縦走路はそれほど歩かれていないため荒れ気味で、踏み跡もわかりづらいところがある。そもそも団地内の道路から山道に入るにはガードレールを乗り越えなければならないのだ。(誰が置いたのか、足場になるコンクリートブロックが目印)ちょっと滑ったり、迷ったりしながら、それでも20分ほどで茶臼山にたどりついた。
茶臼山は室町時代に山城が築かれていた。城主は地名にもなっている己斐氏で、己斐豊後守師道入道宗端の子直之は毛利元就が陶晴賢を打ち破った厳島合戦の折に毛利方の武将として要害山・宮ノ尾城に立てこもって戦ったという(山頂の説明板)。
ここから己斐東小学校の横に下山。団地の道路と己斐の古くからある町を抜けてJR西広島駅へ。歩行距離は7.3キロだった。
2022.1.9(日)取材 ≪掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください≫
還暦。50代後半になってから本格的に山登りを始めて4年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラム「バスと電車と足で行くひろしま山日記」