バスと電車と足で行くひろしま山日記 第12回 篁山・竹林寺(東広島市)

国の重要文化財に指定されている竹林寺本堂(中央) 国の重要文化財に指定されている竹林寺本堂(中央)

伝説と仏塔の数奇な運命をたどる


山に宗教的な意味を見出して尊崇する山岳信仰は、古代から各地に見ることができる。山そのものを信仰の対象とすることもあれば、修行や祭祀の舞台として山頂や麓に神社やお寺が建てられている例も枚挙にいとまがない。奈良時代に東大寺大仏造営費の勧進を担ったことで知られる僧行基(ぎょうき)が開いたとされ、現在は真言宗の古刹・竹林寺(ちくりんじ)がある篁山(たかむらやま 522メートル)に登り、山名の由来にもなった平安期の歌人・小野篁(おののたかむら)をめぐる伝説と、かつてこの寺にあった三重塔の数奇な運命をたどってみた。

▼今回利用した交通機関 *時刻は休日ダイヤ
行き)JR山陽線(おとな片道860円)/横川(8:41)→入野(9:38)
帰り)JR山陽線(おとな片道990円)/河内(13:17)→新白島(14:17)

 


今回の足はJR山陽線


篁山へは頂上近くまで車道が通じている。竹林寺への参拝が目的なら車でもよいが、山登りが目的なのでJR入野(にゅうの)駅側から入山してJR河内(こうち)駅へ下山するルートを選択した。入野駅で電車を降りる。跨線橋からは篁山の優美な山容を見渡すことができた。駅前の国道432号を横切って住宅団地「グリューネン入野」に向かう坂道を登る。「竹林寺登山道」の看板も立っているのでわかりやすい。歩くこと15分ほどで左手に「篁山竹林寺古道」と大書された看板と石塔のある民俗資料館横の道に入り、5分ほど歩くと「天平のみち」の石碑が立つ竹林寺参道の入り口に着く。ここが登山口だ。

竹林寺参道の入り口。民俗資料館はまだ開いていなかった 竹林寺参道の入り口。民俗資料館はまだ開いていなかった 「竹林寺参道」と「天平のみち」と彫られた石柱があった 「竹林寺参道」と「天平のみち」と彫られた石柱があった 篁山と竹林寺の説明板 篁山と竹林寺の説明板 梵字が刻まれた石 梵字が刻まれた岩 小野小町像。「小野篁の娘」とあるが、根拠は乏しそうだ 小野小町像。「小野篁の娘」とあるが、根拠は乏しそうだ

豪雨災害のつめ跡と古城


駅からの標高差は400メートルほどあるものの、正直、登山の対象としてはそれほど魅力のある山ではない。道中も山頂からもあまり展望がきかない。
登山道は比較的整備されているが、そこかしこに西日本豪雨のつめ跡が残る。

古道の風情を残す登山道 古道の風情を残す登山道

登山口から15分ほどのところに「姫路瀧」の標柱があった。尾根上にあった松ヶ嶽城の姫がお供女性を連れてこの滝に通ったことから名付けられたという説明が付されているが、崩れ落ちた土砂や樹木に埋もれて見る影もない。もはや姫路滝「跡」というしかない。

山上の城の姫が通ったという伝承を持つ滝だったが、豪雨災害で土砂に埋もれた 山上の城の姫が通ったという伝承を持つ滝だったが、豪雨災害で土砂に埋もれた カエル発見。冬眠しないのだろうか カエル発見。冬眠しないのだろうか 土石流の爪痕が残る 土砂崩れの爪痕が残る

30分ほどで尾根上に上がると松ヶ嶽城跡への分岐。せっかくなので足を延ばす。説明板によると、室町時代に付近の地頭職を務めた入野氏の居城だったという。標高450メートルの本丸跡には石積みの井戸が残っていた。確認はしなかったが、南側には階段状の郭(くるわ)があったといい、空堀や土塁も築かれるなどかなり本格的な構えの山城だったようだ。

松ヶ嶽城跡に残る井戸の遺構 松ヶ嶽城跡に残る井戸の遺構

竹林寺縁起に現れた小野篁


城跡を後にして来た道を分岐まで引き返す。さらに歩くこと数分で竹林寺にたどりついた。石段を登り、ちょっと目が怖い金剛力士像が守る仁王門をくぐると竹林寺の境内だ。池の向こうに3棟のお堂があり、中央のこけら葺き屋根の建物が国の重要文化財に指定されている本堂だ。

山頂近くに立つ竹林寺の仁王門 山頂近くに立つ竹林寺の仁王門 金剛力士像(阿形)。吽形とともに目が怖い 金剛力士像(阿形)。吽形とともに目が怖い 金剛力士像(吽形) 金剛力士像(吽形) 国の重要文化財に指定されている竹林寺本堂(中央) 国の重要文化財に指定されている竹林寺本堂(中央)

登山靴を脱いで堂内に上がらせていただく。本尊の千手観音立像は秘仏のため拝むことはできないが、荘厳な雰囲気に身が引き締まる。人力にしか頼れない時代、山上にこれほどの規模の堂宇を建てるにはどれほどの労力を費やしたのだろうか。竹林寺縁起などによると、平安時代に地元の八千代という女性が本尊に願をかけたところ、男子を授かった。その子が長じて学者・歌人として知られる小野篁(802-853)になったという。小倉百人一首には、以下の歌が「参議篁」の作として収載されている。

わたの原八十島(やそしま)かけて漕(こ)ぎ出でぬと人には告げよ海人(あま)の釣舟

小野篁は実在の人物だが、昼間は朝廷で働き、夜は冥界の裁判官をしていたとか、百鬼夜行との遭遇を企図したとか、人間離れした伝説や説話に彩られている。しかし、まとまった伝記が残っておらず、その前半生は不明だ。先ほど紹介した出生をめぐる竹林寺とのかかわりも伝説の域を出ないのかもしれない。


東京・椿山荘に移築された三重塔


境内から左手に向かう。戦国時代にこの地域を収めた国人領主の平賀氏の墓を見て登っていくと、鐘楼に出る。かつてはすばらしい眺望を誇ったらしいが、いまは樹木が伸びてわずかな範囲しか見えない。近くに「三重の塔跡」という看板と仏像があった。塔は長い年月のうちに壊れて失われてしまったのか。調べてみると、なんと東京・文京区のホテル椿山荘東京に移築されていた。

1932年に当時の東京府が発行した「東京府史蹟保存物調査報告書 第九冊 府下における佛塔建築」などによると、強風で大破して解体されていたものを、藤田組二代目当主の藤田平太郎が買い取り、明治の元勲・山県有朋から譲り受けた椿山荘庭園へ1925年に移築したのだという。移築時に上部は相当修理されたらしいが、東京大空襲も無事くぐり抜け、今では旧寛永寺の五重塔(台東区上野)、池上本門寺の五重塔(大田区池上)とともに、東京に現存する三古塔のひとつとして国の登録有形文化財となっている。東広島・篁山から約640キロ離れた椿山荘へ、数奇な運命をたどった竹林寺三重塔。いつか見てみたいと思った。

平賀一族の墓所 平賀一族の墓所 鐘楼から南を望む。展望はわずか 鐘楼から南を望む。展望はわずか 三重塔の跡地に立つ仏像 三重塔の跡地に立つ仏像

 


河内駅への下山路は…


帰りは河内駅へ向かおう。車道の終点が展望広場とうたわれていたので寄ってみたが、やはり見えるのはわずかなエリアだけ。昼食のパンを食べてから下山したが、このルートは正直苦行だった。展望がないのはあきらめるとして、舗装路の歩きが長く、退屈だ。わずかに木の間から広島空港が見える場所や、竹林寺の旧名「花王(かおう)寺」にちなんだと思われる「花王の滝」もあったが、迫力に欠ける。

名前は「展望広場」だが、見えるのは北側の一角だけ 名前は「展望広場」だが、見えるのは北側の一角だけ 下山路の途中にあった花王の滝。水量は少ない 下山路の途中にあった花王の滝。水量は少ない

ひたすら歩いてJR河内駅に着いたのは12時38分。だが、休日のこの時間帯、山陽本線なのに1時間に1本しか電車がない。40分以上駅舎で待って帰途についた。
登山として楽しむなら入野駅からの往復をおススメする。今回の総歩行距離は7.3キロ。

 

ライター えむ
還暦。50代後半になってから本格的に山登りを始めて4年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラムバスと電車と足で行くひろしま山日記
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