【映画館今昔物語】広島市内に60館以上あった懐かしの単館映画館の歴史
時代の移り変わりとともに街の映画館が減少する中、広島の街に映画の灯をともし続けようと奮闘する映画館を取材しました。
戦後の復興とともに映画館も急増。最も多い1960年ごろには広島市内に60館以上がひしめき合っていました。
中心部の主な映画館といえば・・・福屋の向かいにあった広島東宝劇場。「ゴジラ」や1964年の「東京オリンピック記録映画」が封切られると行列が・・・。
その並び、現在の東急ハンズのビルには広島東映。今は亡き菅原文太主演、広島や呉が舞台の実録ヤクザ映画「仁義なき戦い」シリーズが上映されるたび、もう連日大盛況でした。
さらにその西側、800人以上収容できた朝日会館も多くの常連客が通っていましたが、スカラ座に名前を変えたのち2009年に閉館しています。
歓楽街のど真ん中・流川で43年間親しまれた広島リッツ劇場。ブルース・リーの「燃えよドラゴン」は、立ち見までギッシリでした。
時代ごとの個性的な作品に加え館内には独特の香りが漂っていました。
ちなみに封切館、昭和の大人料金は、1966年500円、1975年1000円でした。当時は2本立てが基本で、合間には決まってアイスクリーム売りのおじさんが現れたものです。
ほかに懐かしの映画館は・・・OS東劇、宝塚会館、サロンシネマ、広島ステーションシネマ、松竹東洋座などなど・・。
最後まで昔ながらのフィルム上映にこだわり続けたシネツインも長い歴史に幕を下ろしました。
そして、知る人ぞ知るミニシアターが福屋の7階にあった福屋名画劇場。現在の八丁座につながっていると思うと感慨深いものです。シネコンとはまた違う単館には単館ならではの高揚感を誘う雰囲気がありましたよね。
12年前、東洋座と名画座を改修してオープンした「八丁座」。
緞帳や行灯など江戸時代の芝居小屋をイメージしたつくりには、当時の民衆の活気を広島の街に取り戻したいという思いが込められています。
八丁座・蔵本健太郎 支配人「当時郊外にシネコンができ始めて、”街なかの映画館はもう時代が終わった”と言われていたんですけど、映画館の灯は街なかには絶対なくてはならないという思いがあったので、広島の街なかのにぎわいを取り戻したいなと思って。」
1990年代には複数のスクリーンが集まるシネコンが台頭しはじめ、街なかの映画館が次々と姿を消しました。
しかしそんな時代に抗うかのように八丁座は生き残り続けてきました。
座席は数を以前の半分以下に減らし特注の大きなイスでくつろげるように。
自由に館内に飲食物を持ち込めるのは「映画は楽しむもの」という思いからきています。さらに街なか映画館ならではの特徴と言えば、上映作品の独自セレクトです。
その時の社会情勢などをふまえ、さまざまなラインナップをそろえます。
八丁座・蔵本健太郎 支配人「気持ちとしては、映画のセレクトショップ。スタッフ皆、映画ファンですから、毎晩営業が終わった後に映画館で試写をして、メジャーとかマイナー問わずに面白い映画を、話題の映画を選んでいます。」
広島で撮影されアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した「ドライブマイカー」。様々な賞を受賞するとともに、連日満席の大盛況に。
コロナの影響で通常の半分以下に落ち込んでいた売り上げも7割ほどに回復したそうです。
八丁座・蔵本健太郎 支配人「本当にもうコロナで映画館も苦戦している、大変なんですけど、ドライブマイカーが救世主のような。」
そんな八丁座は、先月映写機やスクリーンを4K対応の最新型に入れ替えました。思い切った投資です。
八丁座・蔵本健太郎 支配人「映画をみるには映画館がベストポジションと信じておりますから。コロナではあるんですけど、そこは未来に向けての思い切った意気込みということで、街なかで文化の発信をし続けていきたい、し続けていかないといけない。」
街なか映画館の可能性を信じて。広島の街に映画の灯をともし続けます。
ひろしまリード編集部